居場所感とかいうもの。

私は他人の家が苦手だ。親戚の家も苦手。何なら実家も、私はもう出たから苦手。実家の家の中でも、自室以外は苦手だった。

 

私の家にはたまに人が来る。泊まる人も、泊まらない人も。帰ってしまうと、ひどく虚無感に襲われる。ああ、一人だ、ひとりだ、って。それが日常ならなんともなくて、むしろひとりの空間が幸せで誰も踏み込まないでくれとさえ思うのに、時に人が足を踏み入れるとそこは非日常になってしまって、日常に戻った途端とてつもなく虚しくなる。

 

私がすきな人に読んでほしいと言われて読んだ「凍りのくじら」の一節。

『私が、自分に名付けたのは、少し・不在。私は、どこにいても、そこに執着できない。誰のことも、好きじゃない。誰とも繋がれない。なのに、中途半端に人に触れたがって、だからいつも、見苦しいし、息苦しい。どこの場所でも、生きていけない』

誰かの腕の中に居る時だけは自分の存在を認識できる。だけど、その腕の中に執着はできない。その人を好きじゃないから。誰のことも好きじゃないから。でも、中途半端に触れたがるから、自分の存在とその腕の中の安心感だけ覚えて、失った途端、虚無感に襲われて、見苦しくなって息苦しくなる。そして日常のひとりの空間でも生きられなくなる。

 

誰かの腕の中というのはとても安心する。相手の心音に「ああ、この人は生きていて、ここに存在している」と思う。そして、「自分も、生きていて、ここに存在している」と思える。私が居場所感を感じるのは、その非日常的な誰かの腕の中だけで、日常では居場所感等など感じられないのだ。ひとりだから。

 

誰かの腕の中で、少しだけ泣く。そうすると、優しくしてもらえる、子供のように扱ってもらえる。私はそれが欲しくて、泣くふりをしたりする、寂しいと言ってみたりする。居場所感を求めて。失わないように。みんな帰ってしまうから、失ってしまうのだけど、また戻ってきてね、私をその腕の中に帰らせてね、と思いながら手放す。

 

泣くふりも、寂しいと言ってみたりするのも、本当は、ふりや言ってみたなんてものではなくて、その非日常の空間ではきっと本当で本心で、日常になった時に苦しくなるから、ふりや言ってみたなんてものにして誤魔化しているんだろうな。