そんなこと言われたら今までの私はどうなるんだ。

「きっと苦労した経験が無いんだろうね」

 

嫌味な人間に嫌味のように言われるだけじゃなく、度々言われることがある。「結局、強いよね」とか。そんな事言われたら、あの日やあの日やあの日の私は、一体どうなってしまうんだ。

 

辛かったことのあれやこれやを並べようとしたけれど、不幸自慢みたいでダサかったのでやめた。だけど毎日本当に苦しくて、死んでしまおうともしたけれどできなくて、毎日必死の思いで生きてきたのに、それでも私は苦労せずのうのうと生きてきたって言うんだろうか。

 

確かに私はちょっと頭が回るから、生活がままならないことは無かったし、めちゃくちゃ努力しなくても勉強はできたし、運動はそもそもできないからやっていなくてしばきあげられるみたいなことも経験してない。そうやって、苦労はうまく避けてきた。それを「苦労した経験が無い」と言われたって、じゃあ好んで試練を選ぶべきだったということか、と。誰だって苦しい事はしたくないはずだ。避けられる苦労なら避けるだろう。私は苦労を選ぶべきだったのか。

 

多分人の言葉を聞きすぎるのは良くない。他人の評価が自分の評価になってしまうのは、かなりまずいことだと思っている。

 

「仕事辞めたいな」と思ったり言ったりする度に、「辞めたい辞めたいって言う人間ほど辞めない」という言葉が頭の後ろから飛んできて私を殴る。「そうだね、だから私は辞めたいと言って半年辞めてないんだもんね」と殴ってきたそいつに悲しく笑って慰める。

 

「自分のことが大嫌いだ」と思う度に「でも結局自分が一番可愛くて一番大切でしょう」と殴られる。確かにそうかもしれないと思って「自分のこと本当は好き」と言えば「そう言う割には自分のことあんまり好きじゃなさそうだよね」と言われ、そんなことはない大好きだと憤慨することだってある。

 

1言えば100言い返してくる自分を、頭が回るからたくさんの理由で自分を殴って慰めてを繰り返していることなんて誰が分かるか。察しろとでも言うのか。そんな人間になるのなら、私は1言えば100言い返してくる自分と自分の殴り合いを、全部言葉にして相手に聞かせる。だから察しろとか分かってくれなんて言わないけれど、そんな諦めたみたいな目だけは向けないで欲しい。この「〜しないで欲しい」も、結局のところ「察して」と同じなのだろうけれど。

 

ここまで書いたけれど、私がこれを読んで思うことは「自分で自分を認められたなら、全部どうでもいいことだろうよ」です。おわり。